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From 2000/4

    柏荘(小川袈裟男さん)の聞書


 対山荘35周年記念の行事が終った後,同期3人(磯川,益田,渡邉)は柏荘に泊まりました。眠る前の一時,小川袈裟男さんと昔語りに花が咲き,貴重なお話を伺いました。その内容を後世に伝えたいので「その聞き覚え」を記します。対山荘30周年記念行事の折は柏荘には先輩諸氏が多数宿泊しており,歓談しながら小川袈裟男さんに岩魚の骨酒を振舞われて,痛飲した思い出を話したら,早速に岩魚の骨酒がその晩も出てきました。岩魚の骨酒を飲みながら,まず柏荘の建物の歴史から小川さん夫婦に思い出話を伺い始めました。


【柏荘の建物】

 柏荘の建物は建ててから約50年の歴史があります。小川袈裟男さん夫婦は現在81歳ですので,31歳頃,父親が手作りで柏荘を建てました。丁度その頃,小川袈裟男さんはシベリア抑留(3年間)から復員して,この地に入植した頃かと思います。いまの建物の姿は白川村の合掌造りの民家に見られるように,囲炉裏の煤で天井も柱も黒光りしております。柏荘の裏手の林には,大きな桜の木があります。この木は,この地を開拓する時に雑木(ざつぼく)を切り開いたのですが,その時に伐採しないで残したもので他のミズナラの木や白樺の木と一緒に蓼科の雑木(ざつぼく)の風景を守っています。その向う(水路)側は唐松の植林地になっています。35年前は2〜3mの高さだった唐松は見上げる高さになっています。

【古い山荘や地名】

 小川袈裟男さんの生まれた土地は現在の柏荘よりも少し上の地域です。従って戦前からの山荘の建物も歴史も良く知っております。桐蔭寮(元東京教育大学付属中学校,現筑波大学付属中学校)は昭和3年頃建てられ,一夏中学生達が桐蔭寮で過ごしたそうです。蓼科山の登る途中に「夢の平」という高山植物が咲き,周りの山々の展望の良い所がありますが,これら御泉水等の地名の多くは桐蔭寮に遊んだ子供たちが名付親だそうです。

【蓼科の雑木】

 戦前から戦後にかけて,蓼科(立科町)は炭の産地で有名でした。唐松の植林が始まる前の話です。雑木(ざつぼく)が生い茂る里山だったのでしょう。おそらく,ミズナラや椚やブナの林であったと思います。その山林(300町歩)を立科町では1年に30町歩単位に炭の問屋(茅野市の仲買人)に入札させて,山の雑木を売却し炭を生産しておりました。炭の問屋(元締め)は沢山の配下の炭焼き人を抱えており,家族単位で問屋から指定された雑木の山に住みながら,ミズナラを伐採し,炭の窯を作り,炭焼きを行い,炭が出来た頃,仲買人が馬で炭の引き取りに来たそうです。同時に炭焼き人が必要な生活物資も届け,その決済(支払い)も盆暮れの2回で行われていたそうです。従って,山の自然も10年で1サイクルし,環境も守られていたそうです。ちなみにブナや雑木の林は保水力が高く,貴重な財産でありました。しかもミズナラの実(どんぐり)は動物達の貴重な食料でもあり,熊,ウサギ,リスが当時は沢山住んでいたそうです。今の唐松林には保水力もなく,動物も住んでおりません。対山荘35周年記念翌朝,周りを散歩していたら「クリタケ」を見つけました。啓一さんにキノコの名前を確認し,我が家に持ち帰り,味噌汁の具にしていただきました。

【森林組合の仕事】

 小川袈裟男さんは現在の地に入植し,畑を作ろうとしましたが大地の下は火山による溶岩がほとんどで,いわゆる土壌の部分が少なく畑にするには大変苦労されたそうです。土壌は長い年月を経て腐葉土や微生物の力で作られます。白樺林が多いことはこの地が痩せた大地である証かもしれません。従って,仕事は森林組合からの山林の間伐を請負,10人位のグループを作って間伐作業を行ってきたそうです。今では,木材の価格も下がりほとんど需要がありません。森林の保全も大変でだんだん植林された山から雑木の自然林へ移行したいそうです。自然林とは人間が手入れをしなくても山の環境が守れる林です。また自然の中で生活するにはマキが必要ですが,今ではマキは灯油より高くなってしまい。マキを準備するのも大変お金がかかるそうです。もちろん自分で山林を持っている人は昔ながらの方法でマキを自家製で作ります。

【白樺湖】

 白樺湖は昭和16年頃,大門地区の稲作を可能にするために作られた池だったそうです。現在の白樺湖から流れている水は当時沢の水が直接,下流に流れ,そのまま田圃に入りその冷たさでは稲は成育しない状態でした。そこで,何とか水温を上げる方策は無いかと白樺湖が創られました。湖(ダム)の表面の水は太陽によって暖められ,その水を下流に流したのです。当時はこの湖を蓼科大池と呼ばれていました。白樺湖の名前は昭和30年頃,湖に立ち枯れしていた白樺の木が多かったので,自然に白樺湖と呼ばれるようになったそうです。白樺湖の堰堤は最初は木と土で作られたので,しばらくして水漏れも多く,戦後何度もセメントを注入して保全したそうです。昭和30年代までは湖にはカジカとうの魚もいました。昭和40年代まではワカサギもいました。今ではブラックバスしかいないそうです。私が現役(学生)の頃には白樺湖でワカサギをつり,対山荘でテンプラにして食べた記憶があります。(1999/11/6)渡邉信一記


中村(喜久雄)さんのコメント(2000年4月13日)

この5-6年袈裟男さんとも、お会いしていないので、大変懐かしく読ませていただきました。私が、袈裟男さんとお会いしたのは、昭和37−38年頃で、雪の中、飯島先生と白樺湖から歩いて、袈裟男さんの所を訪ね、山小屋の建設予定地探しの候補地を探しに行った折りです。勿論、袈裟男さんは、まだその頃は専業の木こり、兼森番で柏荘は開業しておらず、今の食堂の処が和室で真ん中に囲炉裏がありましたよ。結果として、適当な土地が中々見つからず、現在の場所に、袈裟男さんのご好意で3千坪のうち、半分を小川家から、残り半分を立科町からお借りすることになったのです。なにしろ当時は町が山小屋建設に大歓迎で非常に積極的でした。従って、候補地は皆、1-2万坪の土地で大き過ぎて困つたのです。しかし、今、考えると、大きい土地を借りておけばよかったかもしれませんね。何しろ町当局が、早稲田大学が来てくれるというので、選り取り見どりでした。


昭和42年頃の蓼科付近の地図はここをクリック


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